杉原祐之句集『先つぽへ』鑑賞。その4

Ⅳ.「出張の帰り」 平成十九年
余り苗魔除の如く置かれたる
 「余り苗」が季題で夏。「『夏潮』初の稽古会、石の湯」と詞書があります。田植えを終えて余ってしまった苗が、田圃の傍らに置かれているのです。それがまるで「魔除」のようだったというわけです。一つかみほどだろうと思いますが、苗の量と、無造作にではあっても、棄てられているというほどではない有り様が見えてくると思いました。

出張の帰りの植田明かりかな
 「植田」が季題で夏。短期出張の帰途についているサラリーマン。もちろん飛行機ではなくて、電車か高速バスに乗っているのでしょう。案外早く仕事が片付いたことに安堵しながら車窓を見ると、植えたばかりの田圃の水が日を返しているというのです。「出張の帰り」で手短に状況を語り、「明かり」で時間帯を明かし、二つの「の」でリズムを整えて、と非常に周到な俳句です。

夏潮に一直線の航路あり
 「夏潮」が季題で夏。平成十九年は、俳誌『夏潮』創刊の年です。旗揚げの時の高揚感が格調高く詠われています。

積まれたる薪に立て掛け登山杖
 「登山杖」が季題で夏。高地にある山荘なのでしょう、夏でも薪が積んであるのです。そこへ登山杖を立て掛けておいて、一休みしているという句。山荘の中には入らないで、外のベンチでコーヒーでも飲んでいるのでしょうか。季題「登山杖」の働きによって場面を描き出していて巧みです。

玉砂利の熱き八月十五日
 「八月十五日」が季題で秋。終戦記念日に、大きな神社に来ているのでしょう。まだ夏そのものの日が輝いていて、足からは玉砂利の熱を感じているというのです。昭和二十年の当日、玉音放送で終戦が知らされたその記憶を持っているかのような詠いぶりだと思います。

韃靼の秋風吹ける大路かな
 「秋風」が季題で秋。「慶大俳句満州吟行旅行 三句」のうちの一句。地名を詠み込んだ俳句は、祐之君の十八番です。そして、「歴史的名句」という自賛も祐之君の得意技です。「韃靼」は、地名というか民族の名を詠むと同時に、元の時代を想像させる歴史的な言葉です。「大路かな」という下五で、読者を一気に現代に引きずり込む詠みぶりはさすがです。また、季題の「秋風」も爽やかさと一抹の淋しさを感じさせて効果的だと思います。

残業の裏口を出て夜の秋
 「夜の秋」が季題で夏。表口が閉まる時間まで残業して裏口から退社する時に、近づいてきた秋を感じたというのです。朝から空調の効いた建物の中にいたのでしょうから、「夜の秋」が実感されたわけです。これも、過不足ない言葉で場面を再現していて、巧みです。

返り花海光山の境内に
 「返り花」が季題で冬。長谷寺でしょうか、どこでも良いのですが、海光山という山号の寺院があって、その境内に返り花が咲いていたという句。「海光山」というからには、海が見える境内なのでしょう。小春日の海の反射と、ひっそりとした境内に静かに咲く返り花が、いかにも印象的です。

扁額を下ろしてよりの煤払
 「煤払」が季題で冬。「歳末の京都 五句」のうちの一句。扁額を下ろすことから、お寺の大掃除が始まったということです。扁額を下ろすという恭しい行為に、この一年に対する感謝が込められていると思います。「煤払」の本情を捉えた俳句。
 「よりの」に説明臭さがあるのが瑕瑾でしょうか。便利な決まり文句ですが、鼻につく危険性がある表現だと思います。
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2 Comments

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韃靼

相も変わらず、切れのある句評有難うございます。
ぼちぼち句評を拝見していますが、貴殿のように構造的、季題趣味で捉えている句評は少ないですね。
ところで、韃靼は、元の時代より明~清にかけての時代であったと思います。
司馬遼太郎の『韃靼疾風録』もその頃をテーマとしていました。
歴史的名句と言う自賛は、最近Mさんという俳諧師の方からもよく伺います。
奥様によろしくお伝えください。お祝いの句はスタンバイしております。

  • 2010/05/10 (Mon) 23:26
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前北かおる

不思議なことに、

細かく鑑賞するほど、瞬発力の俳句に光が当たって来るようです。「韃靼」は明、清時代でしたか。失礼しました。
 Xデーは、今週末あたりでしょうか。昨日、恐怖体験を拝聴しました。

  • 2010/05/11 (Tue) 07:41
  • REPLY